はこざき今昔
山口 毅
箱崎商店連合会相談役

 箱崎商店街の思い出として今も懐かしく思い出すのは戦前の商店街の風景です。造り酒屋や呉服店などの大商家が立ち並び人馬が行き交う様子は子どもの目にも圧巻でした。箱崎千軒とも呼ばれたように、当時の箱崎は糟屋郡の中心地、筥崎宮の門前町として文字通り繁栄を極めていたのです。  現在の「きんしゃい通り」にも清水呉服店、米田屋(造り酒屋)などの大商店がありました。呉服店には京都から仕入れた反物が次々と馬車で運び込まれ、裏の工場(現在の中公園)では箱崎縞を糸から染め織物に仕立てていく作業が行われていました。当時の一般的日常着だった箱崎縞は今ではどこを探しても見つけることができません。方々手を尽くして探しているところですが、反物一つも残っていないというのは本当に残念なことです。きんしゃい通りにはその他にも箱崎郵便局や松田耳鼻科、理容室などがありました。町内で維持管理していた共同湯があったのも懐かしい思い出です。  子供の頃の思い出として特に印象に残っているのは、朝早くからひびきわたる物売り達のにぎやかなかけ声です。子供だった私は、毎朝豆腐を売り歩くラッパの音で目を覚ましました。牡蠣を売り歩く、「ぼーーえん、ぼーえん」というかけ声(「かきぼ〜〜ぇーかきぼー」といったかけ声だったのではないかと思われる)も箱崎の住人なら多くの人が耳にしたはずです。
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箱崎縞工場 中央が工場右側が干場になっている


 戦時中から戦後にかけて商店街の様子は一変しました。呉服屋も軍需工場になり、戦後間もなく造り酒屋も姿を消しました。戦後、きんしゃい通りには4,5軒しか店が残っていなかったように記憶しています。物資の少ない中で、リヤカーで野菜を売りに来ていた農家の方達が軒先を借りて商売を始めたのが、商店街の再出発のきっかけです。その後数年の内にきんしゃい通りに次々と店ができていったのは、やはり以前からの商店街としての地力がまだまだ残っていたおかげでしょう。昭和40年代から50年代前半にかけては、大変なにぎわいを見せる福岡市有数の商店街となりました。箱崎に映画館が4軒、ボーリング場が3軒あったと聞いても今の若い人たちには想像もできないかもしれませんね。商店主達も意気盛んで、自転車にのぼりをたて自転車隊を繰り出し、名島あたりまで売り出しの宣伝に行ったのも楽しい思い出です。  昭和50年代後半になると、西鉄電車廃線で人の流れが変わったことなどもあり以前ほどのにぎわいを見せなくなりました。近年は商店主達の高齢化に加え、郊外型の大規模小売店舗が次々と進出するなどなかなか厳しい状況です。特にこの2・3年は目に見えて売上が落ちている商店も多く、店をたたむところもでてきました。しかし、少子高齢化の時代にあって地元に密着した商店街の役割は重要です。お年寄りや子供達、働くお母さん達にとって利用しやすい、「人に優しい商店街」づくりがこれからの商店街の課題ではないかと考えています。(取材:今里佳奈子) photo 戸次呉服店 特売会荷出しの様子

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