はこざき今昔
古田鷹治
博多町人文化連盟副理事長
博多仁和加振興会副会長

 歴史と伝統のまちとして古くから開けた私たちのまち箱崎は、古名を葦津浦或いは白良浜と云った。箱崎千軒といわれ、博多の次の宿場である。
 明治22年に町制が敷かれ、郡役所もあって糟屋郡の郡都として発展し、政治経済の中心であった。旧市内電車道を境に北を浜部、南を岡部と呼び、浜は漁業を、岡は農業を生業として、生々と発展してきた。漁業は埋め立てにより規模が縮小したが、かつては箱崎海苔として宮内庁に献上されるなど良質の海苔を産出した。消防法の制約で今はないが、萱葺きの海苔乾燥小屋の立ち並ぶ様は、箱崎浜の冬の風物詩であった。また、岡は日本三大蔬菜(野菜)地帯としてその一翼を担い、国内に冠たる地歩を築いていた。農業も九大設立に伴い滅失したが、潅水用のハネツルベが五百余りも林立して一大景観を呈していたという記録もある。
 筥崎宮の前の道、つまり東へ九大に通じる唐津街道がわが町のメイン通りであった。商店も概ねこの道に沿って両側にあった。町民の大事な店であったことは勿論だが、近郷近在からの客も多かった。あの狭い街道を国鉄の大型バスが離合していたのだから驚きである。
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建物の看板には「箱崎町役場」(右)と「箱崎町會議事堂」(左)、 前列の人がもっている看板には「東本馬場町連絡長事務所」とある。

 私は昭和15年春に箱崎小学校を卒業した。。その冬の12月に福岡市と合併したので、私たちは糟屋郡時代最後の卒業生ということになる。正式には糟屋郡箱崎尋常高等小学校尋常科卒業である。現在地にあった木造の古い校舎であったが、児童数は2,100名もいて、今日流にいえば超マンモス校であった。まだ筥松、松島、東箱崎もなく、大字箱崎のあちこちからの通学であった。因みに箱崎から分かれていったこの四小学校は一幹同枝の兄弟校である。筥松校区ができたとき、校区分けをするのに九大工学部の煙突と、大きな火の見やぐら(現公民館)を見通した線で、箱崎、筥松の両校区を分けたので、道が境ではなく、隣同士で違う校区というところがいくつかあって、大らかな時代の面影を見る思いである。
 私は筥崎宮東側の社家町先祖代々生まれ育った。筥崎宮社の樹木の緑の中で生活してきたと思っているが、五月の楠の若葉のころがとくに好きである。萌え出ずる緑の若葉は清々しい。陽光に照映え、大空に泳ぐ鯉のぼりは一幅の絵である。よくぞ箱崎に生まれけりと実感するときでもある。
五月になるとこんなことを思う昨今である。

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昭和30年代の商店街の写真と思われる 箱崎本町角 箱崎1-32-42付近
正面はあと山精肉店
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現在の風景
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